募金

 募金を頼まれた。
 拡張型心筋症の女の子が、海外で移植するための費用である。
 私は断った。
 なんと、冷たい女であろう、と廻りから思われたかもしれないが、これはどうしても出来ないことなのです。私にとっては。
 ある人は悲痛な顔をして、ある人は「少しでも役に立つなら」などと言いながら、財布からお金を出し、募金箱へ入れてゆく。
 罪悪感がつきまとう。
 なぜ出来ないんだ。今、財布の中身が空な訳ではないし、それを少しばかり入れたからといって、なんの支障があるのだろう。
 でも、出来ない。出来ないというより、海外で臓器移植をするための募金を決してしないと、私は心に決めていた。それをただ貫いただけなのだけれど、自分がひどく冷酷な女のような気がして、そして惨じめでいたたまれなかった。


 海外で移植手術を受けるためには、約1億円ものお金が掛かる。
 もちろんそんな大金、個人で用意出来る人なんてほとんどいない。廻りの人の協力を得て、そのお金が用意されてゆく。どんなに頭を下げても、どんなに辛くても、その子の命が助かるのならなんでもしたいと思うのが、親心なんだろうと思う。その気持ちは、解るような気がする。
 そして、それを見た人々は、自分のほんの少しの善意でも何か役にたつかもしれない、と思い募金をする。それも決して批難するつもりもない。
 一人の命を救うために、たくさんの人の善意と愛情がそこへと集まる。


 一方、同じような病気、病状の子を抱えていてもそういう募金を募れない親たちもいる。
 親たちは、重い病気の子のことで精一杯。募金を募るには、強力な協力者が必要となる。そういう協力者を得られない人たちもいる。
 成す術無く、子供を亡くしてしまった親の記事を読んだことがある。
「多くの人が移植手術のために海外へと行く中、私たちはなぜこの子に何もしてやれなかったのだろう、と悔やまれる」
 というようなことが書かれていた。


 世界には、たった百円程度のワクチンが手に入らないために、死んで行く命がたくさんある。
 1億円投じなければ助からない命と、たった百円程度のお金で助かる命の違いはなんなんだろうと思う。
 愛情の重さか。徳の違いか。環境か。
 受ける愛情が大きければ命は助かるのか。
 私には解らない。
 同じお金を投じるならより多くの人に助かって欲しいと思う。身近な人にとってはそうじゃないってことくらい解る。
 でも、私にとっては臓器移植を望んでいる子も、世界で百円程度のワクチンを待ち望んでいる子も、同じくらいの距離にある。
 百円程度のワクチンを望んでいる子だって、親や兄妹がいて、愛情を注がれていない訳ではないと思う。


 そんなことを考えてみたところで、私は健康だし、何不自由ない暮らしをしている。
 私は、マザー・テレサのような生き方が出来る訳では無い。無駄にお金を使うこともあるし、贅沢だってする。
 けれど、命の重さは等しくあって欲しいという、単なる私の望みだ。
 それでもここ数日、募金をしなかったことで気が重い。でも、もし、していたとしても同じくらい気が重かっただろうと思う。
 この世の中が変だとか、臓器移植のためにそれだけのお金を投じる必要なんて無いだとか、そういうことを言うつもりは無い。
 でも、私が何に心を寄せるかを選ぶ権利はあると思う。