転機

昨日も書いたけれど、私はいろんな人に助けられてるなぁと思う。
ここ数日嫌なことの連続で、そういう状況の中にいると、人のありがたさを身にしみますね。


不幸っていうのは、どこに転がっているか解らない。気が付いたらその不幸につまづいて転んでしまっている感じ。
転んでかすり傷の場合もあるし、大けがをしてしまうこともある。
かすり傷だったら、泣きながらでも自分で起き上がることが出来るけど、大けがをしたのなら、誰かに手を引っ張ってもらって起き上がっても良いと私は思う。
問題は、その時どう思うか。
自分で起き上がれたのなら、その強くなった自分を褒めてあげれば良い。
人に起こしてもらったのなら、そのことをありがたく受け止めて、誰かが転んでいるのをみたら、今度は自分が起こしてあげる人になれば良いのだと思う。
ひとりで起き上がれない自分を責めるのは辞めよう、そう思う。
誰だって転ぶ。誰だって一人ではどうしようもないくらい大けがをしてしまうことはある。一人で起き上がることが出来ないからって、それは弱い訳じゃないって思う。


辛いことが続いた時に、私は「これは転機だ」っていつも思うんですよね。大転機もあれば小転機もあるけれど、これは何かが転じる機会になるはずだって思います。
環境が変わるのかもしれない。考え方が変わるのかもしれない。
「転機」って転じる機会でもあるんだけれど、転ぶ機会でもあると思うんです。だからやっぱり痛みを伴う。
痛みを取り去るのに一番必要なのは時間。時間が解決してくれるとは思わないけど、時間は必要。
その時間を誰とどういう風に過ごすのかも重要。
だから辛い時こそ、自分が信頼出来る人、好きな人、そういう人たちと一緒に時間を過ごしたい。


本当に辛かった時、その時も一人暮らしをしていたのだけれど、母が「家へ帰っておいで」って言ってくれたことがありました。
その時は辛いことを受け止められる自分になるために、一人が過ごす方が良いと思っていたんですね。その方が自分の為になるって。でもそうしていると、どんどん自分一人の考え方に固執して、どんどん意固地な考えになっていたように思います。
結局その時は家に帰ったのだけれど、今思えば辛さを受け止めて強い自分になるための転機じゃなかったと思う。それにそんなのは強さじゃない。
あれは、家族や廻りの人たちの優しい気持ちに触れて、自分が少しでも優しくなれる為の転機だったと今は思います。


なんだか偉そうなことばかり書きました。数日前まで自分が辛くてぴーぴーだったのに、こんなこと書けた義理じゃないけど、辛そうな人をみていると思わずね。
でも本当に辛い人の心には届かないんだろうなぁ。