感動。

昨日の夜中、もう寝ようと思っていたころ。テレビを消そうと思ったら、「写真甲子園」という北海道のローカル番組をやっていた。
北海道のほぼ真ん中に位置する東川町が主催で行われている、高校生のための写真コンテストの模様である。
今年は開催12年目。東川町が「写真の町」と銘打っているのも「写真甲子園」というものが存在することも知ってはいたが、その内容はほとんど知らなかった。
全国から集まった高校の写真部の人が3人一組になって3日間、北海道の、東川町の写真を撮る。それを組み写真にして競うというものだった。
私は写真のことはよく解らない。見るのは好きだけど、技術的なことも、その善し悪しもよく解らない。それなのになんとなく見入ってしまって、最後は泣いてしまった。
人が一所懸命になっている姿と言うのは、胸を打ちますね。
ただ写真をパシャパシャと撮る3日間ではなく、そこには競うという精神的プレッシャーも存在するし、没頭する楽しさもあるのだろう。
優勝した高校の子は号泣していた。顔もくしゃくしゃだったけど、美しいと思った。そこには感動が存在した。


話しは変わるけれど、ビジネス本のなかには「顧客を感動させよう」というような内容のものがある。
私はこの手の本が、大っ嫌いなのです。
確かに顧客の満足度を上げようというのは、ビジネスにおいて大切。本当に行き届いたサービスは感動もする。だけど、それは感動をさせようと思ってやっていることなんだろうか?そう言う意図が見えた途端、興ざめする。
何かに没頭して、それはプロしてだったり、ただただ好きだからというようなことで、一所懸命やっている事に対して感動したいとは思う。だけど感動させようと思ってやったことには、感動したく無い。
こういうのってへそ曲がりなんでしょうかね。
映画だって、感動させようという意図が見えるものだってある。それには感動してしまう。それなのになんだか嫌なんですよね。


あ、解った!
私は感動するのは嫌じゃない。感動させようとする立場にたつのが嫌なんだ。
だって、もし誰かが私を感動させようとして一所懸命何かをやったとしたら、「感動させようと思ってた」なんてことは忘れて、その一所懸命さに感動する。一所懸命何かをやってくれたことに感動する。
だけど、私がもし誰かを感動させようとしたら、一所懸命やらなければ、人を感動させることなど出来ないだろう。でもそのときに「感動させよう」などとは思わないで、ただただ一所懸命やりたいだけなんだ。そして、その一所懸命さを一握りの人で構わないから、解ってくれればそれで良いと思う。
そっか〜そういうことね。


写真甲子園」を観て、この一所懸命さは本物だなって思った。だから感動した。
そんな風に、何かに没頭出来て羨ましいな、とも思った。
今の私は何かに夢中になりたい。夢中になって、没頭して、何かをやり切ったときのあの美しい涙を流したい。
私は、誰かを感動させたいなどとは、やっぱり思わない。感動させられたい訳でもない。出来ることならば、自分がやったことで、自分が感動出来るような、そんなことがしたいんだなぁ。