訃報

 巨人軍の元監督藤田元司さんの訃報が流れた。
 顔と名前は知っていたし、巨人の監督をされていたことも知っていた。でもその程度。それでも人の訃報っていうのは、「ふ〜ん」と軽く受け流せない。
 それは、私が最近考えていたこととも関係があるだろう。
 人との出会い、別れ、関わり、その中で何が生き、何が死に、何が残るのか・・・


 生きている間にどれくらいの人と出会うのだろう。もう記憶に無い人もたくさんいると思うけれど、今までだってたくさんの人と出会っているはず。
 ただの通りすがりの人もいるし、甘えさせてくれた人もいる。反面教師も、育ててくれた人も、助けてくれた人も・・・まぁ他にもたくさん。二度と顔も見たく無いって人もいるが・・・
 人との関わりのなかで、もちろんいやなこともたくさんあるんだけど、それも時間がたてば「良かったな」といつも思う。きれいごとのようだけど、これは本当に。


 嫌なことがあったり、辛いことがあったりしたときにそれをぶちまける人っていうのが、私にはいる。そんなときばかりこちらから連絡をとって申し訳ないな、と思うこともあるけれど、まぁいいや、と思っていつも甘えさせてもらう。
 その人から来た今年の年賀状にこんなことが書いてあった。
「いつも支えてくれてありがとう」
 ふ〜ん。。。そんな風に思っていたのか。でもそれはこっちの台詞だよ。確かにその人の愚痴もたくさん聞いたけどね。
 支えてもらっていると思っていたけど、支えてたのか。人って支え合っているんだなぁ。と淡々と思う。だって、もちろんその人のことは信頼してるけど、将来を約束するような間柄ではない。そういうのは別なところにある。
 人って不自由だね。
 支え合う相手も、パートナーとして生きる相手も、男と女も、夫も妻も、ときには親子のような間柄も、ただただ楽しいだけの相手も、耳に痛いことを言ってくれる人も、甘えさせてもらう相手も、お互いに成長し合えるような間柄でも、たくさんの人と関係を築かなきゃならないんだね。
 もしそれを役割と呼ぶならば、一人の人が担える役割なんて3つか4つくらいが限界だろう。だからたくさんの人と関わらなきゃならないんだな。
 当り前の話しだし、だから人生楽しいんだとも思うけど、今はそれを不自由に感じてならない。すべてにおいて満足することなど出来ない。だからいつもどこかに飢餓感を抱えているんだな。
 何かに飢えていようがなんだろうが、人と関わってそこから何かを得る。もしかしたら自分が何かを与えることもあるのかもしれないけれど、そんなことはどうでもいい。与えようと思って与えたものってなんだか嘘っぽくて嫌いだから。一所懸命関わればいいや。


 きょうのほぼ日で糸井重里さんが藤田さんのことをこう書かれていた。

ほんとうに尊敬できるすばらしい人でした。
「野球には、勝つことよりも大事なことがある」と
中畑清さんは、藤田さんを見ていて知ったのだそうです。


 これを読んで胸が詰まった。
 役割を果たそうとか、何かを教えようとかそんなのはやはり傲慢なんだな。背中を見せるような生き方が素敵なんだな。いや、「見せるような」なんてことじゃなくて、誰かが勝手に見てくれるってことなんだろう。
 人の訃報を聞くと、そしてそれを悲しんでいる、惜しんでいる人の声を聞くと「私はその背中を見ることは出来ないのか」という思いが私の心を重くする。そんな素敵な人と関わりたかったと。そして関わった人にとっても、もう関わることが出来ないという、悲しみを思う。
 だからそれほど知らない人でも、いつもいつも胸が詰まってしまう。


 人との関わりの中で残るものっていうのは、こういうものなんだろうな。なんだか言葉には上手く出来ないけれど、そういうことなんだと思う。