トイレの100ワット

 正直で純粋で正当なこと。
 それは素敵なことだし、間違っちゃいない。けれどそんなことばかりしていたら、息が詰まる。
 純粋かどうかは別だけれど、正直であること、正当というよりは真っ当であること。それを心がけてきた。
「正直」というのはウソを付かないということではない。ウソというのは、質と量が問題なのだ。基準としては、自分に恥ずかしくないウソ、自分に後ろめたくないウソ、これは許すことにしている。
「真っ当」であること、というのは自分の行動規範を考える上で一番簡単だからそうすることにしているだけである。
 物事というのは、とても多面的で見る角度によって180度ものの見え方が変わってくる。どちらにも想いを馳せると動けなくなってしまう。動けなくなるのは面倒だ。自分の中に基準をつくり、それに従って動くほうがはるかに楽。考えてもキリがない。考えるというより、悩んでしまうので、そういうことはもう止めようと思っていた。



「あなたはトイレの100ワットだ」
 と、先日人に言われた。
 明るすぎる、まぶしすぎる、でもそれの何が悪い。確かに無駄かもしれないけれど、それが悪いわけではない。相手が元気なときには気にもならないだろうが、少し暗めのところで落ち着いた雰囲気でいたいことだってある。
 正直すぎる、純粋すぎる、正当すぎる、と。それでは周りが息が詰まる、と。
 純粋かどうかは別だけれど、確かに思い当たる。正論を振りかざす人はつまらない。面白味に欠けるだけではなく、その人といると窮屈な思いをする。私も周りにそういう思いをさせている、と指摘された。
 年齢が若いと自分を律するということは悪いことじゃない。私もずーっとそうしてきたけれど、それは自分のために良かったと思っている。
 けれど、もう三十半ばになると、自分の行動規範のつもりでしていることが、周りに強制力を持ってくる。別にそんなことをさせているつもりはないけれど、後輩たちは私の行動規範に合わせて行動しなきゃならない。
 自分のためにいつでもどこでも100ワットでいることは、悪いことじゃないけれど、いつしかそれが人を照らすようになっていた。
 ウザイよね。


 若いということは、照らされること。照らされて、導かれて、迷いながらもその照らしてくれているものを道標に自分で進んでいくこと。
 明るすぎる光は、迷うことをさせないのかもしれない。後輩たちには、もっと迷えばいい、悩めばいい、と思っているけれどそうさせていないのは、私自身だ。後輩たちももっと考えて悩みたいはずなのに、そうさせてはもらえないと思っているのかもしれない。


 年齢とともに、というよりは経験とともに、今までのやり方が通用しなくなることがある。
 自分は何も変わらないと思っていても、状況はどんどん変化していつの間にか取り残されていることがある。取り残されていたのだなぁ。
 これからも取り残されたと感じることは多々あるだろう。それに気付いたら方向転換。
 人に対しても、自分に対してももっとゆる〜くなろうと思う。
 人は誰かの背中を見て育つ。それは立派な背中ばかりじゃダメだ。別に私が立派なわけじゃないけれど、硬いことには違いないだろう。もっと丸さ、柔らかさを兼ね備えたい。
 それは、自分のためでもある。自分の硬さに最近辟易していた。自分で自分の首を絞めていた。自分が辟易していたのなら回りは尚更なことだろうし。


 まぁ、とにかく反省しました。指摘してくれた人ありがとう。
 でも、トイレの100ワットって痛すぎる。。。