京都徒然

忘れないうちに、京都で感じたことを記しておきたいと思います。


今回は短い時間だったので、それほど多くのところへは行けなかったのですが、竜安寺東福寺などの石庭を見ることが出来ました。
こういうものは見る側のその時の状態で、まったく違ったものに見えるんですね。
前回行った時には竜安寺の石庭で心奪われて、長い時間いろいろな事を考え込んでしまった記憶があるのですが、今回はそれほど強く何かを訴えられたと言うことは無かったです。
もちろん何かを感じるだろうなどと、期待してみていた訳ではないので、スルーしたのですが、その翌日、東福寺に行った時には、なんだかいろいろな思いが湧いて来て眼からウロコが落ちたような感じ。


以前に山田ズーニーさんが書いた33歳病のことを書いたことがあるのですが、現在の私はまさにそういう感じで・・・
お肌の曲り角はとっくに過ぎたのですが、人生の曲がり角に差し掛かっているようなそんな気がしていました。
今、自分の人生のことをきちんと考えなくてはならない。
今、考えなければ、もう修正が利かない。
なんとな〜く過ごしてきて、別に後悔もしていないけれど、このままで良いのか?
これからの人生は何となくではなく、意識的に選び取って、いかなくてはならないのではないのだろうか?
そんなことを漠然とでも考えることが多くなっていたんですよね。


東福寺の庭は、岩の荒々しさがあったり、砂紋が海を象っていたり、緑も豊かで・・・
それを見ていると「考える」ということが、なんだかバカバカしくなってきたんですよ。
そんなこと考えていても時間はどんどん過ぎてゆくし、考えているだけじゃ何も始まらないし、何も変わらない。
なんとなく過ごして来たと思ってきたけれど、小さな選択を重ねてきたのだと思うし、その結果が今なんだろうと思う。
人生の中で大転機なんて、そうそうある訳じゃないし、そういう小さな選択の積み重ねを今、後悔していないのなら、それで良いのではないのだろうか?
それに今まで、良いことも悪いことも吸収してきたと思うけれど、それを行動に変化させる時なのではないのだろうか?
山もあれば谷もある。辛いこともあったけど、その倍くらい楽しいこと、嬉しいことだってあった。それなのに、何を私は考えているんだ?


まぁ、結論としては、考える時間があるのなら行動を起こそう、という感じでしょうか。
心の中が防御態勢に入りつつあったのですが、そういう自分に違和感を感じていたのだと思います。守らなければならない物なんて、そう多くは無いはずなのに、何にしがみついていたんだろう。


岩や砂、緑が混在する庭を見ながらそんなことを考えていました。
もう一度東福寺に行くことがあったとしても、その時は何も感じないかもしれないですね。きっと今のタイミングで京都へ行けたことは、私には意味があったのだと思います。
なんだか気分がスッキリすっきりしました。やっぱり京都へ行って良かった〜