二面性

作家の倉橋由美子さんが亡くなったということを今日になって知りました。
新聞の記事で生前の倉橋さんの様子をご友人の作家の方が書かれていて、それで知ったのだけれど・・・
倉橋由美子さんと言えば、「大人のための残酷童話―[録音資料] (新潮カセットブック K- 5-1)」くらいしか思い出せないのだけれど、面白かったような記憶がある。
めでたし、めでたし、で終わらない童話。ちょっと意地悪で、毒があって、皮肉がきいている童話。そんな話しだったように思う。
その友人の方が、倉橋さんが書かれたものは、ご本人とは印象が違うものだった、というようなことを書かれていました。ご本人は暖かい雰囲気の人だったと。


人って優しいところも意地悪なところも、まあるいところも棘のあるところも、みんな合わせ持っているでしょう?
でもその人から受ける印象って、どちらかに偏っていたりするのは何故なんでしょう。より強い方が強調されて出て来るっていうのは解るんだけど。
会った雰囲気が柔らかくて、書いたものに棘がある。書いたものに内面が出るから棘のある人だったんだろうか?それともその人と会った時の雰囲気っていうのは、取り繕えないと思うので、柔らかな人だったのだろうか?
どちらもご本人で、どちらも嘘が無いと思うんだけど、どうして会った印象と、書いた物は二極化してしまうんだろう?


う〜ん。解らない。。。
ある種の抑圧なのかもしれない。自分自身を持て余してしまうのかもしれない。
自分の中にある、全ての感情を出し切るには、二つ以上の媒体を必要としてしまうのかもしれない。
媒体を二つ以上持たないと自分を出し切れないというのは、エネルギーがいるよなぁって思う。


何をやっても、誰といても印象が同じ人っていうのもたくさんいると思うんだけど、そういうのを素直っていうのかな。
自分をきちんと整理出来ている人っていう気がする。自分の中に混乱がなくて、いつもすっとしているような感じがする。
他に媒体を必要としない人って、いろいろなことにエネルギーを注ぎ込めそうで、なんだかパワフルそうな感じ。
どちらが良いでも悪いでも無いと思うんだけど、媒体をたくさん必要とする人はちょっと疲れてしまうよなぁ。
ただ内包しているものとじっくり付き合うのも悪いことじゃない。じっくりと自分と向き合ってちょっとずつでも確実に進んで行くような気がする。


どっちがいいのかなぁ。
そんなこと言ったところで、自分は変えられないと思うから、考えてもしょうがないんだけど。
私はいつも自分自身を持て余しているので、倉橋さんタイプなんだろうなぁ。でも私の場合、どちらも間が抜けているような気がする。。。