選択とこだわりと生き方。

毎日毎日、何かを選択する。
今日のお昼は、Aランチにしようか、それともB定食にしようか・・・
そんなことまで含めたら、本当に選択し続けているんだなぁと思う。
そんな小さな選択から大きな選択まで、やっぱりその人の生き方って出るんだと思う。


どんな人生にしたいか。どう生きたいか。
今日のランチとは何の関係もないような気がするけど、本当はちょっぴり関係があるんじゃないかと思ったんですよ。
例えば、トンカツ定食食べて、午後からのハードな仕事の活力にしようっていう人は、仕事を一所懸命やろうっていう気構えなのかもしれない。
ヘルシーな野菜中心のランチにしようって言う人は、健康に気遣ったり、体型を気にしたりする人なのかもしれない。
もうそこで、仕事中心の人なのか、体型や健康というようなもっと個人的なことに重きをおく人なのか、その人のライフスタイルが見えてくる。
そんな小さな選択の積み重ねで、人生って変わるかもしれない。ちょっと大げさですけどね。


仕事や健康、体型といったライフスタイルって、その人のこだわりで成り立っているような気がするんですよね。
こだわりっていうのは、もっと概念的なもののような気がします。
好きなことを追求したい。美しいものを探求したい。素敵に生きたい。強くありたい。
好きなことを追求するためには、家族とも好きな人とも離れなくちゃならないかもしれない。別に好きな人たちと離れたい訳じゃない。でも好きなことを追求するためには、やむを得ない。仕方がない。
それがこだわりで、それがその人の生き方なのだから。それがその人の行動規範。
美しいもの、素敵なもの、強さにこだわりがある人も然り。何かを捨てなきゃならないことって、きっとあると思う。


時々、好きなことを追求したいっていうのと、嫌いなことはしたくないっていうのを混同する人がいるけれど、そういうのはこだわりって言わないよなぁって思う。
何かにこだわるっていうのは、捨てる覚悟があるってことなんじゃないかなって思う。


私は何にこだわっているのかを考えていた。私の行動規範となるものは何なんだろうって。
それは「格好よさ」かなって思ったんですよね。


私が、会社の愚痴を言いながらも仕事を一所懸命するのは、自分がご飯を食べてゆく手段に誇りを持ちたいからで、自分の仕事に誇りを持てないのは、格好わるいって思う。
私が、どんなに疲れていても夜コンビニ弁当を食べないのは、一人でテレビ見ながら弁当をかき込む姿が格好わるいと思っているから。
私が、一人でどこへでも出掛けるのは、「行きたい。でも一人じゃできな〜い」なんて言って、家に閉じこもっているのは、格好わるいって思うから。
私が、ブランド物に興味が無いのは、物にこだわるのは格好わるいから。心の方が大事だと思うから。


何が格好良いかなんて、人によって基準が違うし、私と基準が違う人を格好わるいって思う訳じゃない。ただ、私はそうしたいって思うだけなんですけどね。
でも、「私なり」の格好良さを貫くっていうのは、結構やせ我慢もする。
仕事だって嫌になって打ちひしがれるときもあるし、疲れていたらコンビニ弁当で晩ご飯済ませてしまいたいって思うことだってある。
ひとりでどこへでも出掛けるのは勇気を振り絞らなきゃならないこともあるし、たまにはブランドもののバックだって、魅力的に感じるもの。


でもやせ我慢しても、どんなに顔で笑って心はずたずたでも、やっぱり格好わるいことはしたくない。
格好付けて、恥をかくことだってある。だけど、恥もかかなきゃ格好良くなれない。
格好つけるためにじたばたするのは、端から見たら格好わるいかもしれない。
でも、何にも一所懸命になれるものがなくて、ただなんとなく生きているよりは、絶対に格好良いって思う。
あくまでも「私の中の格好良さ」、これにこだわって行きたいなぁ。他人から見たら格好わるくても、私が良いって思えばそれで良いんだよなぁ。


何にこだわるかは、人それぞれ。でも何にもこだわりが無いっていうのは、やっぱり格好わるいよ。
何でも良い。何かにこだわってそれを貫いている人って素敵だと思うし、自分もそうありたい。
そのために何かを捨てるかもしれない。でも強がっていたい。
私のなかのこだわりのイメージって「江戸っ子」かもしれない。曲がらず真っすぐで、やせ我慢もするし、人に迷惑かけることもあるけど、凛としている。
うん。「江戸っ子」のイメージですね。まだまだ現実は遠いけど、近付きたいって思うもの。


それにしても・・・
なぜ私は、「格好良さ」にこだわってしまったんだろう。
「女らしさ」とか「可愛らしさ」にこだわっても良かったんじゃないのかなぁ。
う〜ん。。。無理だなぁ。それは出来そうもないなぁ。きっと。。。いや、絶対に。