自己啓発と宗教と私。

私が自己啓発系の本を会社から与えられて読んでいる、という話しを数日前に書いたのだけれど、それ以前からちょこちょことは読んだりしてました。
だから私が、そういうものに多少かぶれた考え方だっていうのは事実で、別に否定はしないのだけれど、でも特定の本や人、それらのものを「素晴らしい!」などと言う人を実は大っ嫌いなのです。
宗教も同じ。信仰心を否定するつもりもないし、素晴らしいものもあるとは思っていますが、自分が信仰している宗教だけが、素晴らしくて他を否定するような考え方は嫌いなのです。


これらに共通していることは、「盲信」なんだと思う。
自己啓発と宗教。全く異質なものだけれど、この「盲信」という部分では、共通点が多いと思います。
どちらも「すべての」と言う訳ではありません。私が嫌いな、「ある一部の」という意味で。
自分(たち)が正しい、っていう驕りと押しつけ。他者を認めることが出来ない心の狭さ。世の中には自分の知らない素敵なことが、まだまだたくさんあるはずなのに、それをシャットアウトしてしまう愚かさ。自分の今知っていることが、世の中にあるたくさんのもののベストだと思っている滑稽さ。
これらも共通点のような気がします。
自己啓発だって、宗教だって心を、または物質的にも豊かにすることが目的のはずなのに、そんな考え方って貧相だと思います。
確かに見習いたいな、この人は素晴らしいって思う人はいます。でもそれはたった一人の人間。たった一人の人間が考えていることなんて、たかが知れていると私は思います。


自己啓発セミナーも宗教も、自分を豊かにするための道具だと思っているので、全否定するつもりはないのよ。
もし今豊かじゃないのなら、豊かになるためには自分が変わらなければならない。
でも自分が変わるっていうのは、心を変えるってこと。物質的に何かを購入することで変わるなんてことはありえない。
心を自分で変えるっていうのは、なかなか難しい。外的に何か働きかけがある方が変わりやすい、っていう理屈は解るんですけどね。でもその外的要因は、偏ってもいけないと思うし、たくさんのものに触れた方が良いんじゃないかなって思います。
肝心なのは、どう変わりたいの?自分はどうなりたいの?っていうことなんじゃないのかな?。
オウムの麻原みたいに、宙に浮きたい訳ではないでしょう?超常現象を起こせるようになりたい訳じゃないでしょう?
でも盲信している人って、信じれば自分も出来る。何でも出来るって思っている。なんでも出来る象徴として、教祖様が必要なんですよね。
信じることで何かが変わる訳じゃない。言動が変わった分だけ変わるだけ。


本当はね。もっと簡単なことだと思います。
今日はちょっと怠けたいな〜って思ったら、勤勉な人を思い出してみる。苦手だな〜って思ったら、ちょっと勇気を出してみる。
今日はちょっとヘコんでいるな〜って思ったら、優しい言葉に触れてみる。心がざわついているな〜って思ったら、少し手を合わせてみる。
ちょっとだけ重い腰を上げてみる。ちょっとだけ心が穏やかになるようにしてみる。それを明日じゃなくて、今やる。
これを自然と出来るようになるための、道具。別に何かに盲信しなくても、高いお金払わなくても出来ることなんじゃないのかな、なんて思います。


こんなまとまりないことを書いた後に何なんですが・・・
これってさ、恋をしたらきっと全部出来るよ。
心を豊かにして、ちょっと行動を起こしてみる。少しの勇気を持って、感謝する。だって、それだけのことなんだもん。
仕事にだって、勉強にだって、人生にだって恋って出来るんじゃない?