体罰。

駒大苫小牧のあの残念なニュースからずっと「体罰」について考えていた。
結論は、結局「私には解らない」っていうことが解っただけだ。


愛情を伴う暴力は体罰ではない、そんな言葉をよく聞くけれど、それが愛情を伴うものかどうかなんて誰が解るのだろう。
受け止める側の問題なんだろうか?
暴力を振るう側は愛情があったと言い、受ける側がそれが感じられない。
受ける側が感じられなければ、それはやはり体罰と言われてしまうでしょうね。


そもそも「体罰」と言う言葉が私は嫌いだ。人が人に罰を与えるという発想が、なんだか寂しい気がする。罰を人に与えるという発想のなかには、おごりが感じられるような気がする。
罰を与えれば、人を変えられると思うこと自体、もう何か間違っているような気がする。
そこには人をコントロールしようとする力が隠れていて、人が人をコントロールしようとするのは、なんだか恐ろしい。


かといって、私は暴力全面反対派ではないのですよ。
心が震えて、暴力を振るってしまうということを否定しない。多分そういう暴力を愛情のある体罰というのだと思うけれど、そういうものは存在するし、否定しない。
問題は、それが端から見て解らない。受ける側も理解出来ない。
最近思うのだけれど、他人の感情に鈍感な人が多いような気がする。発信する側と受け取る側、どちらも鈍くて、受け止められない。
だから愛情のある暴力でさえ、大問題に発展してしまう。


まぁ世の中には愛情の欠片も無い暴力もたくさんある訳ですよ。
利己的で、自尊心を傷つけられたとか、ただ単に面白くなかったとか、そういうことで繰り返される暴力もたくさんある訳です。
でもそこで行われた暴力がどういう感情で行われたか、相手がどう受け止めるのか、それは解らない。
そう、とにかく私には解らない。


ただ、自分が子どもを含めて誰かを殴る時、力を誇示するとか、利己的な理由で殴るのだけは止めよう。そう思うだけです。
心が震えたか。殴る時はそれを基準にしようと思います。