「過ぎたるは及ばざるが如し」ともちょっと違うけど・・・

私は子どもの頃、帆立が大好きだった。これをお腹いっぱいになるまで食べられたら幸せだろうな〜と思う程、帆立が好きだった。
そして、そのチャンスがとうとうやってきた。
あれは18.9才の頃だったと思う。北海道の短い夏の日曜日、父が知人からたくさんの帆立をもらって来た。
その夜、我が家の小さな庭で、バーベキューコンロを出し、他の魚介や肉と一緒にその帆立を焼いて食べた。バターを乗せ、醤油をたらりとかけ、はふはふと頬張る。
その他に刺身、帆立ご飯まである絢爛ぶりである。
幸せ〜な気分。何故これほどまでに好きなのか解らないが、子どものからの夢をその時果たしたのである。
しかし、その幸せは長くは続かない。
どういう伝手だったのかは、よく覚えていないけれど、それから一か月間程、毎週日曜日になると、帆立が我が家に届いた。そして、毎週バーベキュー。
3週間目くらいには、私は帆立を見るのも嫌になっていた。
今は帆立好きですよ。でも一切れ食べればもう充分。美味しさの勘所が掴めるようになった。
ウニも似たような経験があるのだけれど、昔のように「一折り全部食べた〜い」とは思わない。お寿司、1カンを美味しくいただく。


食い意地張っちゃダメってことですね〜なんでも欲張っちゃダメなんですよ〜


人の欲望なんて際限がない。欲しい、欲しいなんていうのは、手に入らないから欲しいのだ。
手に入り過ぎてしまうと、それは途端に色褪せる。
でもそれが色褪せてしまうのは、「本当に欲しいものじゃなかったから」じゃない。「本当に欲しかったけれど、手に入りすぎたら色褪せる」ものなんだと思う。
例え、大好きな人と24時間、365日一緒にいたいって思っても、実際にそんな生活になったら、自分の時間も欲しくなるし、他の友達とも会いたくなる。


でもさ。それってやってみなきゃ解らないのよ。手に入り過ぎの状態を一度経験してみないと、その加減が解らない。
帆立だって、食べ過ぎという経験をしなきゃ、一切れの本当の美味しさが解らない。
どんなに甘美で、穏やかな生活だって、そればかりでは退屈するし、そのありがたさも解らない。
欲しい、欲しいと思う欲望は大切だけれど、それを手に入れられる状態になったとき、どこまで自分をセーブ出来るだろうか。全て手に入れてしまうと、幸せは遠のいて行く。
これは、手に入れ過ぎた故の不幸を一度味あわなければ、解らないんだろう。経験でしか加減が出来ない気がする。


私は欲張りなので、欲しい物がたくさんある。欲しい、欲しいって言っている今は幸せだと思う。
欲しい、欲しいと言っているだけで、何もしていないわけじゃない。それをどうやったら手に入れられるか、頭を使って、身体を使って考える。
もし、その欲しい物が目の前にぶら下がったとき、以前よりはそれを少しずつ大切に食すことが出来るようになったような気がする。
これが、年を重ねるってことなんだろう。年寄りくさいが、経験値が上がるっていうことはこういうことのような気がする。


何が言いたいのかよく解んないよね。だって例えが帆立だし。。。