泣く。

 今日の私は涙腺が弱いらしい。
 フィギュアスケートのグランプリファイナルを観ていた。安藤美姫さんの曲は「Merry Christmas Mr. Lawrence」。私はこの曲が好きで、この曲を聞くとなんだか切なくなる。彼女の滑りを観ながらこの曲を聴いていると何だか泣けた。
 この曲のせいばかりではなくて、安藤美姫さんが不調からここまできたこととか、そんなことも頭をよぎったのだけれど。
 それから浅田真央ちゃんの滑りを観ても泣いた。なんだか訳がわからん。
 その後に観た本田美奈子さんの追悼番組。「アメイジング・グレイス」を聴きながらまた泣いていた。


 特に感傷的なことがあった訳でもなく、落ち込んでる訳でもないのだけれど、ときどきこういうことがある。不調というよりは、好調の兆しだと思う。
 本当に不調の時は、泣けない。それが小さな小さな積み重ねで出来た不調のときは特に、感情の持って行き場がなくて、心の奥に澱のようなものが溜まる。それがいっぱいになったときに、こんな風に意味も無く泣いてしまうんだろうと思う。


 心の奥でわだかまっているものが、たくさんある。それは仕事の方向性と上司との軋轢。プライベートな対人関係。恋愛も。
 冷静に考えてみれば、そろそろ限界だ。それは自覚していたし、ここ最近の不調はひとつのことをきっかけとしていたけれど、実は積み重なったものだと思う。
 そのほとんどが、我欲が満たされなくて溜まった澱だ。手に入らないものが欲しかったり、集団という大枠に従いたくなかったり、自分だけのために何かをしたかったり。
 でも、その何が悪い。人に迷惑かけたりすることはしたくないが、それ以外ならいくら私がうんうん唸って、落ち込もうが喘ごうが、いいじゃないかと思う。
 この「いいじゃないか」と思うこと自体、もう我欲の塊なのだけれど。ただ生きているだけで、誰かに嫌な思いをさせたり、時には恨まれたり、何かを間違ったりしているのだから、「いいじゃないか」と開き直ることは、してはいけない。
 こんな思いが行ったり来たりする。


 今日は、泣いた。
 泣いて何かを洗い流して、ゼロにしようって訳じゃない。澱を澱としてではなく、糧に変えなくちゃならない。
 でも、泣きもせずただうんうん唸りながら澱の中に浸かっていたら、きっと私は病気になる。壊れてしまうだろうと思う。泣くことは壊れないためのシステムだと思う。「壊れないため」というよりは、「壊さないため」のシステム。自分を壊さないためのシステムを稼働出来ること自体、きっと自分本位な人間なんだろうなとも思うけれど。
 どうやったら糧に出来るのかは、解らない。きっと振り返ったら勝手になっているような気もするから、ここはただどうやって乗り切るかだけを考えれば良いのかもしれない。
 私は、このシステムが好きだな。これからも大いに活用しよう。テレビ観て、鼻水垂らしながら泣いていたって、きっと誰にも迷惑かけないし。目に見えて何かが変わる訳じゃないけれど、気を緩める術として私には必要なことのように思う。
 でも、ときどきは「ごめんなさい」ってちゃんと言おうと思う。自分だけがうんうん唸っているわけじゃない。きっとみんなそうやって生きている。そのうんうん唸っている中には、私が原因の一端になることもあるんだろうな、と思うから。