理解という名の愛が欲しい


 最近涙もろいのは、きっとトシのせいなんだろう。30代中盤でこんなに涙もろくなってしまった私は、70才になったら、一日中泣いているに違いない。


おとなの小論文教室。 - ほぼ日刊イトイ新聞

「クソババア、はやくシネばいいのにネ」
と、お嫁さんが決して言えない言葉を先に代弁して、さらりとあかるく言ってあげたそうだ。
すると、お嫁さんは、心が軽くなる。
「そんなことは、決して想っちゃいけない」
と思っているから苦しい。
お姑さんから、いじめ抜かれていれば、人間だもの、憎悪の感情はおこる。
でも、「そんなこと想っちゃいけない」と自分で抑えつける。
社会的にもそんなこと許されない。
「想っちゃいけない」が、「そもそもあってはいけない」になり、そして、「ない」ことにされてしまう。
でも自分で、どんなに「ない」ことにしようたって、現に、その感情は自分の中に「ある」。
認めてくれなかったら、その感情だって浮かばれない。

 誰だって醜い想いも、情けない想いも、抱えている。認めたく想いだってたくさんある。
 けれど、やっぱり「そんなことは、決して想っちゃいけない」と私は思う。そんな想いは浮かばれなくたって構わない。
 自己完結している情けなさや醜さを認めることはいいだろう。それを「ない」ことにしてはいけない。
 でも「クソババア、はやくシネばいいのにネ」という想いは、祈りだ。そんなことを祈ってはいけない。祈りは通じるかもしれない。もし、通じたら・・・そんなことを考えると怯えてしまう。
 でも、やっぱりそれも「ない」ことには出来ないのかもしれないけれど、そんなことを祈っている自分はみじめだ。人を貶めて、自分が幸せになるだなんて、そういう自分を許しちゃいけない。
 そもそも、このお嫁さんが病気になってしまったのだって、その醜い想いのせいだもの。その醜い想いが自分の中に巣食って、人を病気にする。それを外へ向けたらその相手が本当に死なないだなんて言い切れるのか?その祈りに責任が持てるのか?
 例え「シネばいい」と思うような相手でも、それならばそれを抱えて自分が病気になる方がマシだ。


「ある」ものを「ない」ことにする。あまりにも不自然なことなのかもしれない。
 でも、それが出来ないのなら「ある」ものを少しでも小さくしよう。多角的に見てみよう。そんなの一時しのぎのことかもしれないけれど、そんな風にしか折り合いの付け方が解らない。
 うん。どうしていいかなんて解らない。
 悟りでも開かないと無理かな。凡人で煩悩だらけの私には、やっぱ無理だわ。