死を

 二宮和也くん主演の「少しは、恩返しできたかな」を鼻水垂らしながら観た。
 病気もの、子供、動物ものなんかを観ると、すぐにテッシュ抱えて鼻をすすってしまうんだなぁ。「感動ドラマ特別企画」なんて枕詞が付いていたのが気に入らなかったのだけれど、まんまとその意図に引っ掛かってしまいました。


 死ぬかもしれないと自覚したときに、人って何を考えるだろう。その人の本質的なものが出るのだろうか。普段は決して見ることが出来ない部分。切羽詰まった状況でしか出すことの無い、自分でも気づかぬ自分。
 人の言動や想いっていうのは、3段階あるような気がしている。表面に見える部分、その下に隠れている部分、それから芯となる部分。肉体でいうならば、表皮、肉、骨って感じかな。
 死と隣り合わせで見えるものって、骨の部分なんだろう。表面的にどんなに取り繕っても補うことの出来ない骨格。
「面の皮が厚い」なんて言い方をするけれど、今を生き抜くためには必要なことだ。そうなりたいかは別として、それが防御になるから。
 肉は薄いほうがいいな。肉っていうのは、憎悪や嫉妬や責任転嫁や建前、そういうものを司っているような気がする。それが本質なのかと見間違うこともあるけれど、それもやっぱり鎧に過ぎない。
 そのさらに下に隠されている骨の部分。これはきっと美しいに違いない。そう思いたい。優しさや強さや思いやりや無償の愛が隠されているのではないだろうか。


 でも、皮をめくって、肉を剥いで、骨をむき出しにするのは、痛いのですよ。見ている方も痛々しいが、本人だって痛くて痛くて仕方が無い。だからそう簡単には出せないんだな。
 死を自覚するっていうことは、それ自体がもう痛い。骨がむき出しになっている状態。だから死を覚悟している人は、痛々しいが美しい。


 私は、死を覚悟したこともないし、壮絶な死を目の当たりにしたこともない。だから綺麗ごとだなぁ〜とは思うが、人の奥底にはそういうものが眠っているとやっぱり思う。