薄っぺらい

 消えてなくなってしまいそうな自分、そういう感覚に時々襲われる。
 多分、最初にそういう感覚になったのは、20代前半のころだろう。何かきっかけがあってそうなることもあるし、突然なんの前触れもなく、そうなることもある。
 そして、一度そういう感覚に陥るとそこからなかなか抜け出せない。
 自分という存在が薄っぺらで、ふらっとどこかの山奥で身投げしても、私がいたことなど誰も知らなかったように時間は過ぎて行くんだろう、というような感覚。
 誰も悲しまない、誰も嘆かない、それどころか「そんな人いた?」などと言われるのではないかと言う恐怖。現実には、いろいろな人との関わりのなかで、そうならないということは、頭では解っているのだけれど、その恐怖は拭いきれない。


 これって、いいトシをして恥ずかしい話しだけれど、愛情に飢えた子供みたいだ。
 万人に愛されたい訳じゃない。でも、誰かの唯一無二の存在になりたい。
 しかし、唯一無二の存在とは、なんなんだろう。
 子にとって、親はたった一人(二人)しかいない存在だけれど、だからといって親が居なくなっても生きてゆく。親にとっても、子はかけがえのない存在だろうが、それが全てではない。どんなに愛する人が居ようとも、そこに全てをゆだねて生きている訳では無い。
 唯一無二の存在とは、自分自身のことだけではないのだろうか。自分にとって自分が唯一無二。
 簡単なことだ。
 私が、人をどんなに愛してもその人のことを本当の意味で、丸ごと理解出来る訳でも受け止められるわけでもない。それと同じように、私も人から丸ごと理解される事は無いし、受け止められることもない。
 これは、悲観でも自虐でもなく、事実として。
 こんな簡単な事実をときどき受け入れられなくなる。
 だからこそ、大切にしたり、愛おしかったりする気持ちを大事にしたいと思うんだけど、それを受けているという感覚が希薄になると、薄っぺらな存在になってしまう。


 愛は与えないと受け取れない。与えたところと同じところから返ってくるとは限らないけど。与えた愛が、巡り巡ってどこかからやってる。
 でも、愛を受け取っていないと、与えられない。
 受け取る愛は、親や子や、恋人ばかりではなく、近所のおばちゃんやコンビニのお兄ちゃん、テレビや映画や活字からだって受け取れる。
 ようするに、受け手の態勢の問題だ。態勢が整っていないと、きちんと受け取れなくて、欠乏状態に陥る。
 薄っぺらだと感じる時は、大抵そう言う時だ。与えることに躍起になって、気が付いたらからっぽになっている。からっぽになるほど与え続けていたのだから「こんなに与えたのに、どうして……」というよこしまな思いもよぎる。それが拍車をかける。
 もはやそれは、愛ではない。
 からっぽになってしまうほど与えてしまうのは、自分を愛していないから出来ることだ。自分を愛していない人が、人を愛せる訳が無い。最低限、自分を愛することが出来るくらいの余力を残しておかなければ、それは愛ではなく、エゴとなる。単なる自己満足。単なる押し付け。


 ここ最近、相当な欠乏状態に陥っていて、かなりしんどかった。ようやく、この状況がマズイと客観的になってきた。しかし、こういう状況になってしまうのは、私の一点集中型の性格のせいだ。一点集中型の性格を悪いとは思わない。そして、そういう性格の持ち主が、余力を残して何かをやろうとすることを諦めというのだと思う。