地下鉄(メトロ)に乗って(ネタばれあり)
- 作者: 浅田次郎
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1999/12/01
- メディア: 文庫
- 購入: 6人 クリック: 31回
- この商品を含むブログ (190件) を見る
私には両親がいる。生き死には別として、誰にだって親がふたり、祖父母が四人、曾祖父母が八人……
それぞれの時代を生き、それぞれの人生があり、そして、それぞれが繋がっている。
人って切ない生き物なんだと思う。
何かを一所懸命やればやるほど、それは決して報われることばかりではなく、よかれと思ってやったことが裏目に出たり、的を外してしまったり…… 一所懸命やればやるほど切なさが込み上げる。
やっている本人にはどうってことないことでも、それを見ている廻りの人は、切ない。あがいたり、悩んだり、苦しむ姿というのは、何かに心を奪われている証のようなものなのだと、そこへと無意識に集中してしまっている姿なのだと思う。
地下鉄に乗って (講談社文庫)を読みながらそんなことを考えていた。
それにしても……
浅田次郎という人は、女心のよく解るひとだな、と。それがさらりと書かれていて驚いた。
男はそんな女心なんぞ解らなくていいのに…… と思う。
もう四十才を越えた主人公の真次を取り巻く女たち。同僚であり、不倫関係にあるみち子。後にみち子の母であると解るお時。そして真次の母。
誰かを愛し、愛してるからこそそこにプライドや意地が生まれる。そしてそれらは過剰になってゆく。愛が過剰なのか、プライドや意地が過剰なのかは解らない。けれど、自分で過剰だと言うことに気づいているから、それをほんの少しだけ隠す。
その隠しているものがちらりと見える。いや、隠しきれないほどそれらが膨れ上がって、溢れ出てしまう。
妾宅へ毎月お手当を渡しに通う真次の母。不義の子を一人で育ててみせると片意地はるお時。そして来るはずの無い真次の夕飯を毎日作り、最後には死をも選ぶみち子。
この本は、父と子の確執の中、本来ならば見えざる物が見えて、そしてそれも決して綺麗ごとばかりではなく、そこには歩いた道が延々とある…… そんな話しだと思うのだか、私は親子二代の愛の話しだと思う。
父には父なりの、母には母なりの、お時、みち子、真次…… それぞれの愛の話し。
しかし、男の愛は身勝手で、女の愛は一途に書かれているように思う。
とくにみち子。
彼女はなぜ死を選んでしまったのか。
今、子供のいじめによる自殺が問題視されている。
子供たちは苦しくて、辛くて、誰ともそれをシェア出来ないと感じて死を選んでいるのだろうと思う。解って欲しいと、ここにこんなにも苦しんでいる人間がいることを。こっちを向いてと、そういう叫びなんだろうと思う。
そして「あなたの周りにはこんなに傷付いている人がいるのに気づかなかったでしょう?」という問いを残すように死んで行く。
死を選ぶことは、もちろん苦しさから逃れたいという気もあるだろうが、そこには自己顕示欲がある。そして、死に追いやった人に対して、一生の足枷をはめたいという気持ちが働いているのだろう。
しかし、みち子の死はどうだろう。
狂おしいほどの感情をおくびにも出さす、真次と五年もの歳月を過ごす。決して変化することのない歳月。そこにほんの少しでも希望をもっていたのだろうか。それとも諦めの日々だったのだろうか。
そして、その相手が異母兄妹だと解った時、男は「結婚しよう」という。
「相手の幸せのため」の死ならば、決して足枷にしては行けない。だから存在そのものを無かったことにする。自己顕示欲など持たずに、根本から絶つ。
悲しんで欲しい訳でも、苦しんで欲しい訳でもない。ただ存在そのもの、記憶からも自分の存在を消し去りたかったのだろう。
死を選ぶ直前「相手の幸せのため」というようなことを口にするが、それもちょっと違う気がする。ただ、誰も苦しめること無く、自分の呪縛も解きたかっただけなのだろう、と私は思う。
タイムスリップなんてお伽話だけれど、だから根本から絶つなど現実には出来ないのだけれど、もしそんな方法があるのならこの世はもっと自殺者が増えているに違いない。
死を思いとどまらせる一番の理由は、残された人の悲しみや苦しみなのだから。
だからこの死は、反則技。
現実には、歩いてきた道はもう後戻りは出来ないのですよ。