問い


 最近仕事上で知り合った方とお酒を飲む機会があった。
 数回しかお会いしたことがないのに、とても素敵な人だなぁ、と思っていた人。
 この「素敵だなぁ」と思う感覚は、恋でも愛でもないのでそう思う理由がちゃんと存在する。


 数年前、友人から相談を受けた。
 新しいことを「やった方が良いか」「やらない方が良いか」という相談だった。私は、やったときのその苦労やその苦労ゆえ挫折することを考えて「やらない方が良い」という返答をした。
 でも、友人は見事にやりきって、数年後「やって良かった」と私に言った。
 私は、その数年間の苦労を見てきたけれど、応援しつつも心のどこかで「やっぱり無理なんじゃないか」と思い続けていた。やり切って「やって良かった」と友人が言った時「やらない方が良い」と言ったことをものすごく反省した。後悔してあの時の言葉を取り消したいと思った。どうして、ちゃんと信じて応援してあげられなかったのだろうと。
 しばらく経ってからその気持ちを友人に伝えて謝ったけれど、友人は「そんなこともあったね〜」という程度にしかそのことを覚えてはいなかったけれど、それでも、今でも、そのことを思い出す度に私の心にはチクリとする。


 今の会社に入社して、2.3年経った頃、ちょうど仕事が解りはじめて面白くなっていた。数字はただの0から9までの羅列に見えて、まるで数字ゲームでもするかのように仕事をこなしていた。
 私は数字ゲームの勝者で、時間が経てばその数字も変化してゆくのだけれど、私の手を離れるときに「勝ち」であればそれで良いと、私の手から離れた後のことなど私の責任の範疇ではないと思っていた。
 その結果、ひとつの家族が夜逃げをした。
 少し考えれば解ることだった。私の手を離れた後にその数字がどのように変化するのか。私の手元にあるときに「負け」にしてしまえばよかったのだ。そうしたからと言って、私は痛くもかゆくもなかったはずなのにゲームに「勝つ」ことを楽しんでしまった。
 別に誰も私を責めはしない。その夜逃げした家族もその時点で「勝ち」の状態で手渡すことを望んでいた。ただ、お客さまの要望に応えただけなのだけれど、でも私はプロだ。その後の変化にまで、気を配らねばならなかったのだと今でも悔やんでいる。
 もう、その人たちに会うことは二度とないだろうけれど、もし会うことが出来たなら謝りたいと思っている。謝ったところでどうなるものでもないのだけれど。


 同じ轍は二度と踏むまい、と思っていることは他にもたくさんある。それが私を頑なにしてしまうこともあるけれど、このずっと小骨がひっかかっている感触というのは忘れてはならないと思っている。


 その仕事上で知り合った方とお酒を飲んだ時、その方の「ずっと小骨が引っ掛かっている」話しを聞いた。
 あぁ、なるほど。だからこの人は目に見えないものにまで気を配り、芯が通っているのだな、と納得した。いや、もともとそういう人だから小骨が引っ掛かってしまっているのかもしれないけれど。
 私は、いろいろな経験の中でその反省が身についているのだろうかと顧みたけれど、自分のことはよく解らない。ただ、見習いたいな、と思う部分がたくさんある人と出会えたことに感謝。