トラバ返し!!

 http://d.hatena.ne.jp/nvs/20070816


 ちょいと疲れ気味で、気の利いたことが書けません。。。
 まぁ、あまりにも的を射ていたので、もう書くことが無いっていう話しもありますが。


 でも、一言だけ。
 女の人が結婚することを「売れる」だの「売れない」だの、そういう感覚でいるってことは、自分は「買う」とでも思っているんでしょうね。
 どうやら「買う」ご予定が間近なようでめでたいことです。
 そういう状況で、どうして私に粘着するんだろ? 一日に数回もこのまったく更新されないブログをのぞきにきて、何が楽しいんだろ? 不思議だ。。。

徒然

 昔々、大昔、まだ中学生だったころ大好きだった男の子がいた。隣のクラスのバスケ部の男の子で、背が高く、顔はそんなに格好良かったわけじゃなかったけど、人気者の男の子だった。中2のころ、お付き合いをすることになって、家まで送ってもらったりしていた。
 淡い淡い中学生の頃の話しだけれど、鮮明で鮮烈な印象が今でも残っている。
 でも、そんなことはすっかり日々のなかに埋もれて忘れていた。当り前の話しだけれど、そんなことを度々思い出しながら生きてるわけじゃない。
 それなのに、その男の子の夢を見た。
 内容は、全然覚えていない。けれど、その男の子が出てきたのは確か。目が覚めた時、半分寝ぼけながら、久々に会ったなぁ〜 と思った。
 過去を思い出して、今でもほんわかな気持ちになれる恋なんてそう多くはない。
 この男の子はその恋が終わったずっと後も特別な存在だった。長い間、思い出しただけで私をほんわかな気持ちにしてくれる存在だった。
 多感な思春期の頃の思い出だからなんだろう。その男の子のことよりも、その時の鮮烈な感情が忘れられなかったのだろうと思う。


 人って思い出に恋するんだなぁ。
 過去に好きだった人たちのことを思い浮かべても、その人がどれだけ素敵だったかなんてことはほとんど覚えちゃいない。一緒に行った場所やその時の空気や、自分の感情のことしか覚えていない。
 それらの記憶や経験をもたらしてくれたのは、確かにその人たちなんだけど、今残っているのは、それらが染み付いた自分だけなんだなぁ、と思う。


 昔好きだった人のことが忘れられない、なんて話しを聞くと何かがちょっと引っ掛かる。その気持ちが、解らないわけではないのだけれど、でもなんだか違うような気がする。
 本当は「人」に対して執着しているんじゃなくて、好きだった自分の気持ちや思い出に執着しているんじゃないか、って気がする。それを「人」へと転化しているような気がしてならない。
 人ってどんどん変わる。相手も変わってるだろうし、自分だって知らぬ間に変わっている。置かれている環境だって変わる。その変化を共に歩んでまだ尚、好きだというならば解るけれど、過去をぶつ切りにして「あの時のあの人が好きだった」と言ってももうそれはその人じゃない。
 過去の出来事は、変わりようもないのだけれど、思い出になった途端、暴走しはじめる。美化し、膨れ上がり、妄想する。


 まぁ、暴走万歳!妄想万歳! ですけどね。
 ただ、それは自分の脳内だけで完結している場合だけです。外に漏れ出した妄想は、他人には手が付けられないので、自己完結で妄想してくれ〜 って感じです。

本日代休

 今日はご機嫌!
 愛しい人に会いに行ってきた。彼と会うのはもう5か月ぶり。この5か月間辛かった〜 彼の代わりになる人がいないかさんざん探したけれど見つからず、彼を追いかけるように会いに行ってきたのだ。
 髪を撫でてもらい、ついでにシャンプーもしてもらって、ストレートパーマをかけてもらった。


 ここ数年、髪を切ってくれていた美容師さんが別のお店に移ってしまった。そのお店が、家から遠い! 諦めて、他の美容室にしようと何軒も行ったけど全然ダメ。
 だってくせ毛なんだもの。1か月程前にも別のお店でストレートパーマかけたけど、全然真っすぐにならなくて、おまけにカットもすっごいへたくそで、イライラしてた。
 やっぱり私の髪質を理解してくれている人じゃないとダメなのね。今日はサラサラストレートでご満悦。。。もう浮気はしないと心に決めた。


 その帰りに遅ればせながらバーゲン見物。
 見物するだけのはずだったのに、大量の買い込み。
 戦利品・・・ スーツ(仕事用)、カットーソ(ほぼ仕事用)、チュニック(お遊び用)、ハーフパンツ(お遊び用)、ニットのワンピース(デート用)。
 仕事用スーツは別にしてもこれらを着てどこへ行こうかと考えるだけで、うきうきする。
 やっぱりバーゲンだよね。ザ・バーゲン! なんて心地よい響きなんだ〜


 そんな訳で至福の休日を過ごしたのでした。。。

磨く。

 フリーペーパーに某航空会社の機内食レシピ募集の記事を発見。
 採用されなくても抽選でハワイまでの往復航空券が当たるかも〜 ということなので気合い充分!
 で、思う。
 普段なんとなく感覚でやっていることを紙に落とし込むというのが非常に面倒な作業だということ。塩だって砂糖だって適当だ。適当って言うのは良い塩梅ってこと。その良い塩梅を勝手にやってくれって訳にはいかんのですよね。


 どんなことでもそうだけれど、最初は説明された通りにしか出来なくて、それから感覚を掴んで自分のものにして、オリジナル化して行く。
 レシピ募集に応募するっていうのは、そのオリジナル化したものをまた説明に戻すという作業だ。
 最近、仕事でも同じような現象。オリジナルを人に伝えるためにデータに落とす。もう〜 めんど〜
 でも、それをやると自分の勉強になる。何気なくやっていることの意味を考えさせられる。無駄を省いて簡素化する。削って付け足して、ようやく完成。


 オリジナルがまだ頭のなかにしかないうちは完成とは言えないのかもしれない。磨けば光る石のようなものでしかないのかもしれない。磨かなければ、ただの石ころ。


 

労いの言葉

 病気の家族を抱え、その受入先の病院がなかなか決まらず苦労をなさっている方の日記を拝見した。
 本当に苦労してきた人は「大変だね」と「身体に気をつけて」と言わないということに気付いた、と書かれていた。そして、それは言われてもちっとも嬉しくない言葉だと。
 それを読んだ時に、気が晴れた。
 なんとなく自分のなかでもやもやとしていたものが何なのか気付いた。
 苦労をしている人を見ても労いの言葉を掛けられない自分がいる。なんだか軽々しくそういうことを言ってはならないような気がして。でも、そういう言葉を言えない自分が冷たいような気がしてもやもやとしていた。
 自分が大変な状況にあったとき、そういう言葉を言われてもちっとも嬉しくなかったことがそう言えばあった。そのことが無意識のうちにどこかで引っ掛かっていたんだろう。
 人を元気付ける言葉というのはある。だから言葉を掛けることを否定したりはしないけれど、それは決して「大変だね」とか「身体に気をつけて」などという言葉ではないんだな。
 じゃぁ、どういう言葉が良いんだ? って考えても解らない。ただ沈黙しているのもなんだか情けないけど。

うざい。

 本気で誰かを攻撃することは、自分のプライドに関わることなので出来るだけしないようにしているのだけれど、あまりにもうざいので「そうしようかな〜」と思案中。
 根は結構いじわるなんですよ。攻撃するネタなんて山ほどあるし。
 自分の廻りをぶんぶんうるさく飛び回るハエを追っ払ったっていいよね。だって本当にうざいんだもの。
 やったらやり返されるでしょう。でも、やらなくたってやられるのよ。ま、私の場合、やられたところで目をキョロキョロさせて挙動不審になったりはしませんが。
 やられたからやり返す、という発想は持ち合わせていませんが、やられっぱなしじゃ癪にさわる。負けず嫌いだし。
 なぜ、今そんなことでムカついているのかっていうと、過去にやられたことを許していないから。今現在起きていることなんて大したことじゃない。けれど、過去に相当ムカつくことがあったとき、その後始末もせずに、謝りもせずに、後ろ足で砂を掛けるような真似をして逃げ出したことを私は許していない。で、今。まだやるんですね? もし人を不愉快にすることで金儲けができるのだとしたら、億万長者になれますよ。
 もういい加減にして欲しい。そちらがその気ならいつでもどうぞ。
 さて、こちらはどこから責めましょうか。

大地震

 またもや大地震
 ニュースを見ていると切ないなぁ〜 などと思うが、その「切ない」と感じる自分の感性になんとなく違和感。
 ニュースをただ見ているだけで、一緒に痛がる必要などない。と、いうより当事者の痛みなど解るはずもない。家を失う喪失感。明日への不安。そんなもの寝転がってテレビを見ている人間に解るはずもないのになぜか痛いような気持ちになる。
 他人の身の上を按じることは、大切なことだ。でももっと客観視した方が良いような気がする。痛がったって自分が本当に痛い訳じゃないもの。
 でも、ただへぇ〜 と何も感じずに傍観する方が良いと思っている訳じゃない。明日は我が身と人の痛さを自分の教訓するだけっていうのもこれも違う。
 痛がるな! と思っている訳でもない。当事者が痛いのは、当然。第三者が痛がったってなんの足しにもならんでしょ〜
 当事者がある種の熱を帯びるのは、仕方がないこと。でも第三者はだからこそ冷静に客観的に判断しなきゃならないのでしょ〜
「胸が痛みます」なんて言葉を自分の痛みでもないくせに、沈痛な面持ちで喋る人々に嫌悪感。痛そうな顔したって本当は痛くないんでしょ? とどこかで思う。
 自分のなかの「切ない」などという感情に封印。その感情を否定はしないけれど、もっと淡々と表面を取り繕わなければならないと思う。
 当事者じゃないものの礼儀として。